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Acem Aşîran AyinとŞevk-efzâ Sâz Semâîsi

Hüseyin Fahreddin Dede(1854-1911)作曲のAcem Aşîran Ayinの3.Selâmを聞いていて、どこかで聞いた覚えがあるな、と感じた。

NÂYÎ SAÎD DEDE(1803?-1853)作曲のŞevk-efzâ Sâz Semâîsiだった。
Acem Aşîran Ayinの3.SelâmのUsulがAksak Semâîの部分。器楽の部分。それと、NÂYÎ SAÎD DEDE作曲のŞevk-efzâ Sâz Semâîsiの1 hane(Serhâne)の旋律が全く同じ。

※Acem Aşîran Ayinの3.SelâmのUsulはDevr-i Kebîr→Aksak Semâî→Yürük Semâîとかわってゆく。そのAksak Semâîの部分。ちなみに、Acem Aşîran Ayinだけではなく、いくつものAyinの3.Selâmが同じようにDevr-i Kebîr→Aksak Semâî→Yürük Semâîと変化していく。



İstanbul Devlet Klasik Türk Müziği Korosu
http://devletkorosu.com/‎
の作曲家Bestekârの所にあるNÂYÎ SAÎD DEDE、NEYZEN SÂLİH DEDE(とDEDE SÂLİH EFENDİ。何故か同じ人物の項目が2つに分かれて存在する)、NEYZEN YUSUF PAŞAなどの情報を参考に推測すると、以下のような状況では?と推測している。

1.NÂYÎ SAÎD DEDE(1803?-1853)がŞevk-efzâ Sâz Semâîsiを作曲した。
2.NEYZEN SÂLİH DEDE(?-1888)はNÂYÎ SAÎD DEDE(1803?-1853)の弟である。
3.NEYZEN SÂLİH DEDE(?-1888)はAcem Aşîran Peşrev(UsulはDevr-i Kebîr)を作曲した。
4.NEYZEN YUSUF PAŞA(1821-1884)はNÂYÎ SAÎD DEDE(1803?-1853)の息子である。
5.Hüseyin Fahreddin Dede(1854-1911)はNEYZEN SÂLİH DEDE(?-1888)にネイNeyを教えてもらったらしい。
6.Hüseyin Fahreddin Dede(1854-1911)はNEYZEN YUSUF PAŞA(1821-1884)にネイNeyを教えてもらったらしい。
7.Hüseyin Fahreddin Dede(1854-1911)はAcem Aşîran Ayinを作曲した。

要するにHüseyin Fahreddin DedeがNÂYÎ SAÎD DEDEの旋律を取り入れた、と推測しているのだが、どうだろうか?間違っているだろうか、合っているだろうか。

テーマ : 民族音楽
ジャンル : 音楽

踊念仏とセマーの比較

鎌倉時代の、時宗の一遍上人の踊念仏と、近世ペルシア語で神秘的な内容の詩を書いたメヴラーナを名祖とするメヴレヴィー教団のセマーを比較することによって、踊念仏をもっと広い視野で見ることが出来ないか?世界的な視野で見ることが出来ないか?

鎌倉時代に新宗教が色々出てきたのは、蒙古襲来で社会が不安定になったから?
同じような時期にモンゴル軍は西へも進んでおり、メヴラーナはホラサーン地方のバルフから西へと移動している。


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念仏踊(ねんぶつおどり)[ 日本大百科全書(小学館) ]
[ 執筆者:高山 茂 ]
より

…念仏や和讃(わさん)を唱えながら、鉦(かね)、太鼓、瓢(ふくべ)などをたたいて踊る民俗芸能。踊念仏ともいう。…

→メヴラーナMevlânâの詩を歌い、ネイ(トルコ語:ney)と呼ばれる葦(「アシ」もしくは「ヨシ」と読む)の笛を吹き、くるくる回転する踊りを行なうのがセマーSemâ。クデュム(トルコ語:kudüm)と呼ばれる2つで一組になる太鼓も叩く。

…平安時代に空也(くうや)が始めたという。…

→メヴラーナ(=「ルーミー」とも言う)は、
ルーミー [ 日本大百科全書(小学館) ]
Jālāl al-Dīn Muh.ammad Rūmī
(1207―1273)
[ 執筆者:黒柳恒男 ]
によれば、

生没年が1207-1273なので、後になる?空也(くうや)って何年?
→でもイスラーム圏の神秘主義者はもっと前からサマーをやっていたのでは?

※サマーもしくはサマーゥ(アラビア語:سماع)≒セマーSemâ


平凡社イスラム事典(旧版)
歌舞音曲(カブオンギョク) 
(前嶋信次)
より

…また13世紀に小アジアのコニヤに起こった神秘主義のメヴレヴィー教団の人々のように,音楽に合わせて旋舞することを重要な行事としていた例もあり,…


空也(くうや) [ 日本大百科全書(小学館) ]
(903―972)
[ 執筆者:五来 重 ]
によれば、
空也の生没年は903―972。

メヴラーナ(=ルーミー)の生没年1207―1273より、ずいぶん前。


再び、
念仏踊(ねんぶつおどり)[ 日本大百科全書(小学館) ]
[ 執筆者:高山 茂 ]
より。

…空也は諸国を遍歴して民衆に念仏を広め、市聖(いちのひじり)とも阿弥陀(あみだ)聖とも崇敬されたが、京の市(いち)や四条の辻(つじ)で踊念仏を始めたと伝えられる。はたして空也の念仏に踊りが伴っていたかどうかは明らかではないが、鎌倉時代になって一遍(いっぺん)が出て、諸国遊行(ゆぎょう)し踊念仏を広めた。…

→「空也の念仏に踊りが伴っていたかどうかは明らかではない」とのこと。

→一遍の生没年は?

一遍(いっぺん) [ 日本大百科全書(小学館) ]
(1239―1289)
[ 執筆者:広神 清 ]
によれば、

1239-1289。メヴラーナの生没年1207―1273と比較すると、メヴラーナ(=ルーミー)より年下になる。

ルーミー(るーみー) [ 日本大百科全書(小学館) ]
Jālāl al-Dīn Muh.ammad Rūmī
(1207―1273)
[ 執筆者:黒柳恒男 ]
によれば、

…神秘主義教団「メフレビー教団」(踊るデルウィーシュ)の開祖としても名高い彼…


→一遍とメヴラーナ(=ルーミー)って共通する部分があるようにも思う。同じ様に歌い、踊った。
→いや、でもインドにも歌い、踊った(しかも宗教的な内容の詩を歌い上げた)詩人が、いたのでは?

→一遍とメヴラーナは同じ様に歌い、踊っただけでなく、宗教に関連しているのも同じと言えるのでは?一遍は宗教的な内容の言葉を言い(「念仏」を唱えた)、メヴラーナは神秘的な内容の詩を言った。現在、トルコ共和国でショー(英語:show)として見る事の出来るセマーSemâとメヴラーナの時代、メヴラーナが生きていた時代のものと同じかどうかは分からないのでは?いや、違うほうが可能性が高いのでは?いや、でもヨーロッパ人が昔メヴレヴィー教団の行なうセマーSemâを見て、版画にして残したのがあるのでは?17世紀?

再び、
念仏踊(ねんぶつおどり)[ 日本大百科全書(小学館) ]
[ 執筆者:高山 茂 ]
より。

…『一遍上人絵伝(いっぺんしょうにんえでん)』(1299)には当時の踊念仏のさまが描かれているが、それは勇躍歓喜しつつ乱舞形式で踊ったもののようである。…

→セマーSemâの絵図で、残っている古いもので、一番古いものは何だろう?17世紀ぐらいまでしか遡れない?
ミニアチュール(フランス語:miniature)がある?

※ミニアチュール
イスラーム圏の本の挿絵を指してます。

※Jean Baptiste Vanmourという、ヨーロッパ人の画家らしい人物が残した油絵があるようだ。Jean Baptiste Vanmourは1671年生まれ、1737年没らしい。

→生没年はFaroqhi, Suraiya. The Cambridge History of Turkey: The later Ottoman Empire, 1603-1839 Cambridge University Press. 2006. ISBN 978-0-521-62095-6
という本の443ページ由来の情報らしい。未確認。

Jean Baptiste Vanmourはオスマン帝国の絵を残しているらしい。この人物の描いた油絵にペラ(Pera。地名)でのデルヴィーシュを描いた絵があるらしい。

※一遍上人絵伝の方が随分古い?

再び、
念仏踊(ねんぶつおどり)[ 日本大百科全書(小学館) ]
[ 執筆者:高山 茂 ]
より。

…このように踊念仏にはとくに定まった型がなかったので、のちには他の芸能と結び付いたり風流(ふりゅう)化したりして娯楽的色彩を強めるに至り、全国各地でさまざまな特色をもって行われるようになった。…

→トルコのアレヴィー派のセマーはメヴレヴィー教団のセマーとちょっと違うよね?

※回るアレヴィー トルコの都市における場とパフォーマンスの人類学
米山 知子
A5判 / 224ページ / 並製
定価: 2400円 + 税
ISBN978-4-7998-0101-7 C1039
[2011年12月 刊行]
という本があるようだ。

この本の出版社の内容紹介(以下のURL)によると、
http://www.stylenote.co.jp/books/isbn978-4-7998-0101-7.html

…アレヴィーとは、トルコを中心とする地域に居住するイスラームの影響を強く受けた人々のことである。彼らの身体技法にセマーと呼ばれる、歩くことと旋回動作を基本とするものがある。聖者を追悼するお祭りの、夜の宗教儀礼の中で行われることもあれば、明るい部屋や照明のたかれた大きなイベントホールで行われることもあり、様々な場で「トルコ民俗舞踊」としても実践されている。しかし担い手たちは、セマーが行われる場所に関係なく「神への愛(信仰心の表れ)」であるといい、単なる楽しみやショーとして語ることは少ない。…

再び、
念仏踊(ねんぶつおどり)[ 日本大百科全書(小学館) ]
[ 執筆者:高山 茂 ]
より。

…天道念仏は太陽を拝み五穀豊穣(ごこくほうじょう)を祈る踊り。…(中略)…福島県の空也念仏は空也上人の命日といわれる9月11日にその墓前で踊られる。泡斎念仏は常陸(ひたち)の僧泡斎が勧進(かんじん)のため踊り出したといわれる。…

→いろいろあるんだ。

平凡社『イスラム事典』(旧版)
メヴレウィー教団
(小山皓一郎)
より

…トルコの神秘主義教団(タリーカ)。マウラウィー教団ともいう。この名は開祖ルーミー(1207~73)の尊称マウラーナー(我らが導師)に由来する。初めアナトリアの古都コニヤを中心とする小教派であったが、…(中略)…民衆の間からしだいに社会上層部に支持層が上昇し、洗練された学問・芸術の母体となった。…(中略)…とくに音楽に合わせて集団をなして旋回するジクル(サマーとも呼ばれる)はよく知られ、西欧での別称「踊る(旋舞する)デルヴィーシュ」はこれに由来する。…


時宗(じしゅう) [ 日本大百科全書(小学館) ]
1. 沿革
[ 執筆者:広神 清 ]   
によれば、

…また、時衆は踊念仏を興行して、人々を宗教的法悦に誘い込んだという。歓喜踊躍(かんぎゆやく)した群衆が輪になり、口々に「南無阿弥陀仏」の念仏を唱え、鉦(かね)をたたきながら乱舞するさまは、『天狗草紙(てんぐぞうし)』や『野守鏡(のもりのかがみ)』に記録されており、その独特な布教方法に人気の集中したことがわかる。…

→トルコ人(テュルク系の人びと)がセマーSemâに興味を示したのと似てるかも?難解な、イスラームという宗教の教義を説くのでは無く、歌い・踊る、イスラーム圏の神秘主義者(スーフィー)達の活動は、テュルク系の人びとに対してイスラームという宗教を信仰させるのに、布教するのに、とても役立った?

イスラム教(いすらむきょう)[ 日本大百科全書(小学館) ]
3. 歴史
スーフィズムとイスラム世界の拡大
[ 執筆者:中村廣治郎 ]
より

…こうしてイスラムは、アラブ・ムスリムが活動の舞台から姿を消すと、モンゴル人征服者を改宗し、トルコ人、イラン人、インド人、マレー人、インドネシア人、中国人、アフリカ人のなかにその担い手をみいだし、新たな発展を遂げたのである。そして、この発展とイスラム化に活力を与えたのがスーフィー的イスラムであり、スーフィー教団の聖者や商人であった。…

時宗(じしゅう) [ 日本大百科全書(小学館) ]
1. 沿革
[ 執筆者:広神 清 ]   
によれば、

…時衆僧は仏僧としての教化活動のほかに、広く茶道、花道、連歌、書画などの分野でも才能を示し、…

→メヴレヴィー教団が、オスマン帝国時代に由来する、現在トルコ共和国に伝わり、残っている、芸術に足跡を残したのに似てるかも?オスマン帝国時代に由来する、現在トルコ共和国に伝わっている音楽、トルコ共和国で「古典トルコ音楽」「トルコ芸術音楽」と呼ばれている音楽、オスマン帝国時代に由来する芸術音楽において絶対に省略できない足跡をメヴレヴィー教団に属した人々は残している。

※古典トルコ音楽
斉藤完「『古典トルコ音楽』とは何か」(アラブの音文化 グローバルコミュニケーションへのいざない、スタイルノート、2010年、所収)35頁より

…古典トルコ音楽の原語は「クラースィック・テュルク・ムスィキスィ」であり、この「クラースィック」は近代西洋からの外来語にほかならない。つまり、日本における西洋からの外来語の表記に従えば、「クラシック・トルコ・音楽」となる。加えて「ムスィキスィ」の代わりに「ミュズィイ」の語が用いられることもあり、これも近代になって西洋から伝わった言葉であることを勘案すると、「クラシック・トルコ・ミュージック」となる。日本における外来語の受容やそれに対する認識の仕方を異文化に当てはめることには慎重を期せねばならないが、「クラースィック・テュルク・ムスィキスィ」の日本語訳として「古典トルコ音楽」を採用することには、検討の余地があることをあらかじめ付言しておく…






現在、トルコ共和国のイスタンブル市ゼイティンブルヌZeytinburnu区の中のメルケズエフェンディMerkezefendi地区にあるメヴレヴィー教団の修道場(イェニカプ・メヴレヴィハーネスィYenikapı Mevlevihânesi)は、オスマン帝国時代に由来する芸術に足跡を残した。

※メヴレヴィー教団の修道場はトルコ共和国内にいくつもある。イスタンブル市の中にもいくつもある。イェニカプ・メヴレヴィハーネスィはイスタンブル市の中にあるその内のひとつ。

イェニカプ・メヴレヴィハーネの墓地、心痛むこの状況
2013年04月07日付 Zaman紙
(翻訳者:菱山湧人)
(記事ID:29634)
http://www.el.tufs.ac.jp/prmeis/html/pc/News20130408_035227.html

…イェニカプ・メヴレヴィハーネは、メヴレヴィー教団のイスタンブルにおける最大の中心地で、トルコ文化史においても重要な場所のうちの一つだ。ゼイティンブルヌのメルケズエフェンディ地区にあり、…(中略)…ウトゥリやデデ・エフェンディのような偉大な芸術家を輩出したメヴレヴィハーネの一部は、ファーティフ・スルタン・メフメト大学の文明融和研究センターとして機能している。…

オスマン帝国時代に由来する芸術音楽の歴史において、ウトリーItrîとデデ・エフェンディDede Efendi(1778-1846)は最重要級の人物だが、2人ともメヴレヴィー教団に属していた。

※Itrî
トルコ共和国で使われているアルファベットではİの字とIの字を区別する。

東京外大言語モジュール|トルコ語 発音|理論編 - 東京外国語大学
4.母音
> 4.2.狭母音
http://www.coelang.tufs.ac.jp/modules/tr/pmod/theory/index.html
によれば、
İは「日本語の「イ」が近い音ですが、日本語の「イ」より唇を左右に引きましょう。」
Iは「日本語共通語の「ウ」が近い音ですが、日本語共通語の「ウ」より唇を左右に引きましょう。」
Uは「日本語近畿方言の唇を丸めた「ウ」が近い音ですが、日本語近畿方言の「ウ」より唇を丸めましょう。」


※Itrî(「ウトゥリー」というフリガナが良いか、「ウトリー」が良いか?「ウトリー」の方が良いかな?)は、西暦1630~40年の間に生まれ、亡くなったのは1711年か1712年らしい。
→情報元:
Turkish Music Portal
Composers and Performers / Turkish Classical Music / Composers
ITRİ
http://www.turkishmusicportal.org/composer.php?id=60

なお、

İstanbul Devlet Klasik Türk Müziği Korosu
1976'DAN BERİ ESERLERİNİ İCRA ETTİĞİMİZ BESTEKARLAR
ITRÎ
http://devletkorosu.com/site/index.php?option=com_content&task=view&id=32&Itemid=34
(トルコ語)によれば、生没年は1640年生まれ、1712年没。

※デデ・エフェンディDede Efendiの生没年の情報元は、

İstanbul Devlet Klasik Türk Müziği Korosu
1976'DAN BERİ ESERLERİNİ İCRA ETTİĞİMİZ BESTEKARLAR.
DEDE EFENDİ
http://devletkorosu.com/site/index.php?option=com_content&task=view&id=33&Itemid=34
より。

※ItrîはBuhurîzade Mustafa EfendiとかBUHURİZÂDE MUSTAFA ITRÎ EFENDİとかの表記もある。(オスマン帝国時代の人物名の問題がある。これを説明しだすと凄く長くなるので省略。現代の日本とオスマン帝国時代では名前に関する色々に違いがある)→一応注。Itrî、Buhurîzade Mustafa Efendi、BUHURİZÂDE MUSTAFA ITRÎ EFENDİは現代のトルコ共和国で使われているアルファベットでの表記。

※デデ・エフェンディDede Efendi(1778-1846)の名前は、Derviş İsmail、Dede、Dede Efendi、Hammâmîzâde İsmâil Dede Efendi、İsmail Dedeとかの表記もある。

一遍上人絵伝(いっぺんしょうにんえでん) [ 日本大百科全書(小学館) ]
[ 執筆者:村重 寧 ]
より。

…一遍は伊予国(愛媛県)の生まれ。初め浄土宗を修めるが、のち独自の宗旨を打ち立てて時宗を興す。とくに踊念仏という独得の信仰形式を生み出し、…

→やっぱり、一遍とメヴラーナ(=ルーミー)は比較すると興味深い知見が得られるかも。
→いや、一遍とメヴラーナ(=ルーミー)を直接比較するのではなく、一遍の生み出した踊念仏と、現在トルコ共和国に伝わっているセマーSemâを比較したら良いのかも?

現在トルコ共和国に伝わっているセマーSemâは、具体的には、くるくる回転しながら踊り、歌い、ネイneyと呼ばれる葦(「アシ」もしくは「ヨシ」と読む)を吹く。歌っている内容、つまり、詩はメヴラーナの書いたもので、神秘的な内容。というか、イスラーム圏の神秘主義(タサッウフ[トルコ語:Tasavvuf])の内容。宗教的な内容。

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テーマ : 民族音楽
ジャンル : 音楽

オスマン帝国の芸術的な音楽:担う人々の多様性

オスマン帝国支配下の都市(※1)で行なわれた芸術的な技巧を凝らした音楽を担っていた人々は、ムスリム(イスラームという宗教を信仰する人)だけでは無かった。ユダヤ教徒やキリスト教徒もいた。

タンブーリー・イサク Tanbûrî İsak (1745-1814)はユダヤ教徒だった。彼はスルタン・セリム三世 Sultan Selim III (1761-1808)にタンブール Tanbûr という弦楽器を教えていた。

ザハリヤ Zaharya (1740没?)はギリシア正教徒だった。ギリシア正教はキリスト教の東方教会に分類される。ザハリヤはイスタンブル İstanbul のフェネル Fener 地区に住んでいた。メフメト二世 Sultan Mehmet II (1432-1481)のコンスタンティノポリス Constantinopolis 征服によって、ハギア・ソフィア Hagia Sophiā 大聖堂に置かれていたギリシア正教会の総主教座は、そこを追われてしまった。辿り着いた場所はイスタンブルのフェネル地区である(※2)。ギリシア正教会の総主教座がフェネル地区にあったので、周辺にはギリシア正教徒が集まってくるようになっていた。

ザハリヤの作った歌。例えば、Şebnem gibi saçılsın hûn-i eşk-i pür-revânım。これは、マカーム・ヒュセイニー Makam Hüseynî のベステ Beste である(ベステは声楽曲の形式名の内のひとつ)。ウスール Usûl はベレフシャン Berefşan。

ハンパルスム Hamparsum (1768-1839)はアルメニア正教徒である。アルメニア正教はキリスト教の東方教会に分類される。アルメニアはロシアとペルシアの間にある小国である。スルタン・セリム三世の意を受け、彼はハンパルスム譜という独特な楽譜を作った。これは文字によって旋律を記録する「文字譜」とでも言うべきものである。

ジュゼッペ・ドニゼッティ Giuseppe Donizetti (1788-1856)はイタリア人であった。北部イタリアのベルガモ Bergamo に生まれ、イスタンブルで亡くなった。彼はマフムト二世 Sultan Mahmut II (1786-1839)の頃の時代の人で、オスマン帝国の軍楽隊の指導をした。彼の弟ガエターノ・ドニゼッティ Gaetano Donizetti はイタリアのオペラの作曲家として知られている。

※1 例えば、イスタンブル İstanbul、エディルネ Edirne、ブルサ Bursa、テッサロニキ Θεσσαλονίκη (現ギリシア領)など
※2 現在、総主教座はフェネル地区の聖ゲオルギオス大聖堂にある。

文責:白いりんご

関連記事
Zaharya Efendi(Mir Cemil)(?-1740?)について
http://minzokuongaku822.blog122.fc2.com/blog-entry-89.html

イスタンブル旧市街北西部の金角湾に面したフェネル地区
http://minzokuongaku822.blog122.fc2.com/blog-entry-87.html

オスマン帝国チューリップ時代の音楽家
http://minzokuongaku822.blog122.fc2.com/blog-entry-61.html
→Zaharyaとだいたい同時代の音楽家たちについて記述

トルコ古典音楽におけるユダヤ系作曲家
http://minzokuongaku822.blog122.fc2.com/blog-entry-75.html
→タンブーリー・イスハク(=タンブーリー・イサク)について記述

ハンパルスムについて
http://minzokuongaku822.blog122.fc2.com/blog-entry-19.html

オスマン詩は歌われていた
http://minzokuongaku822.blog122.fc2.com/blog-entry-210.html

テーマ : 民族音楽
ジャンル : 音楽

オスマン帝国スルタンの詩を直した詩人ヴェフビー

オスマン碑文プロジェクト
2013年01月17日付 Zaman紙
(翻訳者:山根卓朗)
(記事ID:28919)
http://www.el.tufs.ac.jp/prmeis/html/pc/News20130118_014225.html

によれば、

~アヤソフィア・モスクの近くにあるアフメト3世の泉の建設年を示す詩句は、スルタン・アフメト3世がつくったものである、すなわち、「アフメド・ハーンに祈れ、神への聖句を唱え、この水を飲め。」

スルタン・アフメド3世は、時の詩人達に、この対句に続く詩を書くよう命じた。詩人達は、すぐに筆を握るのだが、「水を飲め」という単語に押韻していくのは不可能だった。このため詩人のセイイド・ヴェフビーはちょっと工夫をして、「神への聖句を唱え、この水を飲め、アフメド・ハーンに祈れ」という形に変えることで問題を解決し、熟考して職人芸的な記年詩をかきあげた。この詩は泉に四方に、時の有力な書家の一人でもあったアフメド3世の書で彫られた~

とのこと。



アフメト3世Ahmet IIIは、世界大百科事典 第2版(平凡社)によれば、在位1703年~1730年とのこと。

世界大百科事典内のアフメト3世の言及

【チューリップ時代】より

…トルコ語でラレ・デウリLāle devriといい,オスマン帝国アフメト3世Ahmet III(在位1703‐30)の時代,スルタンの女婿で風流の聞え高いイブラヒム・パシャİbrahim Paşa(?‐1730)が大宰相(サドラザム)に就任していた執政期(1718‐30)を指す。この時代は,大宰相の開明的な識見と有能な才能により,対外的には宥和政策,内政的には異例の泰平唯美主義の時代を招来した。…



上の記事のザマンZaman紙の原文を参照すると、

Osmanlı kitabeleri projesi
http://www.zaman.com.tr/besir-ayvazoglu/osmanli-kitabeleri-projesi_2041596.html

該当部分は、

...Ayasofya civarındaki III. Ahmed Çeşmesi’nin yapılış tarihini veren mısra bizzat padişah tarafından bulunmuştu: “Han Ahmed’e eyle dua aç besmeleyle iç suyu.”

Padişah, devrin şairlerine bu mısradan hareketle bir kaside yazmalarını emretti. Şairler hemen kaleme sarılırlarsa da, “suyu” kelimesi yeterli kafiye bulmak imkânsızdı. Seyyid Vehbi, mısraı basit bir takdim tehirle “Aç besmeleyle iç suyu Han Ahmed’e eyle dua” şekline dönüştürerek problemi çözdü ve oturup üstâdâne bir tarih manzumesi yazdı. Bu manzume çeşmeye, aynı zamanda devrin güçlü hattatlarından biri olan III. Ahmed’in hattıyla hâkkedilmiştir...


「アフメド・ハーンに祈れ、神への聖句を唱え、この水を飲め。」は、
“Han Ahmed’e eyle dua aç besmeleyle iç suyu.”
のようだ。


「水を飲め」という単語に押韻していくのは不可能
→“suyu” と言う語のようだ。

詩人のセイイド・ヴェフビーSeyyid Vehbiが直したのは、
「神への聖句を唱え、この水を飲め、アフメド・ハーンに祈れ」
“Aç besmeleyle iç suyu Han Ahmed’e eyle dua”

besmeleyleの語はバスマラを表すのかな?



http://www.sozluk.com/
でBesmeleを調べると、

Türkçe-İngilizce »

1. Islam the formula bismillahirrahmanirrahim. ?? çekmek/demek/okumak to pronounce this formula. ?? görmü? ?eytana dönmek colloq. to be frightened to death.

Türkçe Sözlük »

1. "Esirgeyen ve bağışlayan Tanrı'nın adı ile" anlamına gelen ve bir işe başlarken söylenilen Arapça bismillahirrahmanirrahim sözünün kısaltması:
"İlk ders olarak besmeleyi öğrendiler."- Y. K. Beyatlı.

Atasözü, deyim ve birleşik fiiller

besmele çekmek



Türk Dil Kurumu
Büyük Türkçe Sözlük
http://tdkterim.gov.tr/bts/
でbesmeleを調べると、

besmele Ar. besmele

a. “Esirgeyen ve bağışlayan Allah'ın adı ile” anlamına gelen ve bir işe başlarken söylenilen bismillahirrahmanirrahim sözü, bismillah: “İlk ders olarak besmeleyi öğrendiler.” -Y. K. Beyatlı.

Güncel Türkçe Sözlük



平凡社イスラム事典(旧版)

バスマラ

「ビスミッ・ラーヒッ・ラフマーニッ・ラヒーミ」という決り文句のこと。「慈悲深く慈愛あまねき神の御名において」の意。イスラム法での義務とされる行為と,勧められる行為を行う際に初めに唱える。また書物や文書の巻頭に記す。コーランの各章は第9章を除き,すべてバスマラで始まる。その行為や文に神の祝福を願うためである。ただ,礼拝やジクルはこのバスマラ ではなく,タクビールで始まる。
(後藤明)



アラビア文字では以下のようになるのかな?

بسم الله الرحمن الرحيم
bismi-llāhi r-raḥmāni r-raḥīm



“Aç besmeleyle iç suyu Han Ahmed’e eyle dua”
「バスマラを唱え、この水を飲め、アフメド・ハーンに祈れ」と言う事?


duaはドゥアーのこと?

平凡社 イスラム事典(旧版)

ドゥアー    

「祈願」「祈り」を意味するアラビア語。神に何かを乞い求めること、祈り求めることである。1日5回行われる礼拝(サラート)が、時に誤って「祈り」と訳されるが、ドゥアー とサラートとは明確に区別される。礼拝は、コーランの読誦やジクルなどにより、一定の所作を伴って神をたたえる行為の総体のことであり、ドゥアー はそのうちの一部をなすものである。本来、ドゥアー は自由な祈りとして、神に何を何語でどのように祈願してもよかったのであるが、後には一定の型ができてくる。たとえば、「罪の赦しを乞う祈願」「庇護を求める祈願」「預言者への祝福を神に求める祈願」、さらには礼拝と組み合わされた「雨乞いの祈願」「選択のための祈願」などがある。また、このような祈願のために、預言者や初期の敬虔なムスリムや聖者から伝えられた霊験あらたかな祈<印4704>文が集録され、範例として多くの祈<印4704>書や修道書の中に引用され、伝えられている。

(中村廣治郎)


TURKISH MUSIC DICTIONARY
http://www.turkishculture.org/music/turkish-music-dictionary-1012.htm
でDuâを調べると、

Duâ
1. Lit. "prayer," a genre in Turkish Classical Music and poetry.
2. The introductory section of some semahs.



Database for Ottoman Inscriptions
Osmanlı Kitabeleri Projesi
http://www.ottomaninscriptions.com/
を確認してみた。

「アヤソフィア・モスクの近くにあるアフメト3世Ahmet IIIの泉」のページはこれかな?

III. Ahmed Çeşmesi ve Sebili
http://www.ottomaninscriptions.com/information.aspx?ref=gmap&bid=1434&hid=1833

「詩人のセイイド・ヴェフビーSeyyid Vehbiの書き上げた職人芸的な記年詩」のページは、以下?

III. Ahmed Çeşmesi ve Sebili
çeşme-sebil < ID K1833 > Yapım kitabesi
http://www.ottomaninscriptions.com/verse.aspx?ref=list&bid=1434&hid=1833

詩人のセイイド・ヴェフビーSeyyid Vehbiの詩は以下かな?

Şāhenşeh-i ʿālī-neseb sulṭān-ı memdūhü’l-ḥaseb
Fermān-dih-i Rūm u ʿArab Ḫān Aḥmed-i kişver-küşā

ʿAdl ü kerāmet menbaʿı şems-i velāyet maṭlaʿı
Dergāhınıŋ her mıṣraʿı şehbāl-i sīmurġ u hümā

Ẕātı mülūke āb-ı rū şemşīri bāġ-ı fetḥe cū
Gülzār-ı mülke verdi ṣu mīzāb-ı kilki dā’imā

Hem pādişehtir hem velī ẕātında olmuş müncelī
ʿAdl-i ʿÖmer cūd-ı ʿAlī ḫulk-ı Muḥammed Muṣṭafā

Destinde devlet ḫātemi ḳılmış musaḥḥar ʿālemi
Ḥaḳ resm-i ism-i aʿẓamı naḳş-ı cebīn etmiş oŋa

Ḥayret verir ṣad ḳayṣere ġālib hezār İskender’e
Ḥükmü revān her kişvere fermān-ber-i şāh u gedā

Hem ḥāmī-i Beytü’l-ḥarem hem ḫādim-i şāh-ı ümem
Rūm u ʿArab mülk-i Acem maḥkūmudur ser-tā-be-pā

Oldur imāmü’l-müslimīn ẓıll-ı Ḫudāvend-i muʿīn
Bā-naṣṣ-ı Ḳur’ān-ı mübīn emrine vācib iḳtidā

Şehler oŋa kişver verir ol şehlere efser verir
Seyfine düşmen ser verir olduḳça tuğu ser-nümā

Ol menbaʿ-ı cūy-ı merām ol maḳsem-i rızḳ-ı enām
Olsun ilā yevmi’l-ḳıyām şāhān-ı dehre mültecā

İskender edip cüst-cū ẓulmette gezmiş sū-be-sū
Bāb-ı Hümāyūn’unda bu etti revān āb-ı beḳā

Bu ṭarḥ-ı pāk-ı ḫurremi sevḳ etti ṣadr-ı aʿẓamı
Dāmād-ı ḫāṣṣ-ı ekremi hem-nām-ı ceddü’l-en biyā

Oldu o düstūr-ı celīl bu ḫayr-ı cārīye delīl
Ḫalḳa edip Zemzem sebīl celb etti ol şāha duʿā

Ol şehriyār-ı zer-nis̱ār beẕl etti māl-ı bī-şumār
Yaptı sebīl ü çeşmesār me’cūr ola rūz-ı cezā

Bu mevḳiʿi ābād edip bu ṭarḥı nev-icād edip
Rūḥ-ı Ḥüseyn’i şād edip etti sebīl āb-ı ṣafā

Bu ʿayna ey sāfī-derūn destini Kevs̱er gibi ṣun
Her ḳaṭre-i ṣafvet-nümūn olmaḳta bir ʿayn-ı şifā

Ābı zülāle mā-ṣadaḳ ṭāḳı felekle yek-nesaḳ
Gök ḳubbeniŋ altında baḳ var mı bu resme bir binā

Olduḳça ber-cā mihr ü māh zīb-i serīr olsun o şāh
Ṣadr-ı güzīnin yā İlāh etme rikābından cüdā

Ey Ḫusrev-i ʿāli-tebār āsārıŋa yoḳtur şumār
Ammā bu dil-cū çeşmesār oldu ʿaceb ḥayret-fezā

Baḳ sīm ü zerden ṭāsına Āb-ı ḥayāt-efzāsına
Beŋzer gümüş saḳḳāsına bekler ḳapıŋ ṣubḥ u mesā

Yaptıŋ sarāy meydānına ḳıldıŋ salā ʿaṭşānına
Cennet’te Kevs̱er yanına gūyā ki ḳaṣr ettiŋ binā

Altun ṣuyun edip sebīl yaptıŋ ʿuyūn u selsebīl
Birine biŋ ecr-i cezīl versin cenāb-ı Kibriyā

Medḥinde ḫāmem oldu lāl iẓhār-ı ʿacz etti maḳāl
Evṣāfıŋ eylerken ḥayāl hātiften erdi bu nidā

Vehbī ḥamūş ol beste-leb ḥaddiŋ değil eyle edeb
Senden muḳaddem oldu hep şāʿirlere birden ṣalā

Vaṣfında edip güft-gū çoḳ kimse döktü āb-ı rū
Ettirdi āḫir ser-fürū ol ḥusrev-i şevket-nümā

Tārīḫ içün dānişverān ḥayrette iken nāgehān
Buldu şehenşāh-ı cihān bir mıṣraʿ-ı ʿālem-behā

Her lafẓı baḥr-i mevc-zen maʿnāsıdır dürr-i ʿAden
Görmek dilerseŋ oŋu sen ey teşne-i ḥüsn-i edā

Tārīḫi Sulṭān Aḥmed’iŋ cāri zebān-ı lūleden
Aç besmeleyle iç ṣuyu Ḫān Aḥmed’e eyle duʿā
1141


確かに一番下に
Aç besmeleyle iç suyu Han Ahmed’e eyle dua
がある。

1141はヒジュラ暦1141年の事?
→「MEIS2 イスタンブルで碑文を歩く[髙松 洋一]」から、碑文の年代と思われる。



MEIS2 中東・イスラーム圏における人間移動と多元的社会編成
東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所・基幹研究
イスタンブルで碑文を歩く
(フォトエッセイ 2012年6月)
髙松 洋一
http://meis2.aacore.jp/photo_essays_201206.html

~碑文の最後の行には、その碑文の年代がしのびこませてあります。アラビア文字は全部で28文字ありますが、各文字に数字が割り当てられていて(1から9まで、10の倍数の10から90まで、100の倍数の100から900までと1000で、ちょうど合計28個になります)、使用する各文字の数字を合計するとその年代になるように詩作するのです~

~韻文の約束をふまえつつ意味のある句を作って、なおかつ制作年代まで読み込むのですから、碑文はオスマン朝の詩人たちの腕の見せ所でした。意外なことに、オスマン朝では計算が得意なことが、詩人として大成する必須条件だったです~



詩人のセイイド・ヴェフビーSeyyid Vehbiの詩らしきものを見ると2行?毎にまとまっているけど、2行、4行、6行、8行、と偶数行の末尾が皆「ā」の音っぽい。脚韻を踏んでいる?



日本大百科全書(小学館)によれば、

押韻(おういん) [執筆者:窪田般彌]

同一音または類音をもって韻を踏む修辞法。語頭にあるものを頭韻(アリタレーション)、語尾にあるものを脚韻(ライム)、母音のみの押韻、類音の一致を半諧音(かいいん)(アソナンス)という~



韻律は
Müstef‘ilün Müstef‘ilün Müstef‘ilün Müstef‘ilün
のようだ。

バヒルbahirはレジェズRecezかな?

Seyyid Vehbîは以下のような人とのこと。

(III. Ahmed Çeşmesi ve Sebili
çeşme-sebil < ID K1833 > Yapım kitabesi
http://www.ottomaninscriptions.com/verse.aspx?ref=list&bid=1434&hid=1833
より)

Poet

Seyyid Vehbî

Information of poet

ö. 1149 [1736-37]. III. Ahmed döneminin önde gelen şairlerindendir. İlk mahlası, Hüsamî’dir. İstanbul’da müderrislik, Kayseri, Manisa ve Halep’te kadılık görevinde bulundu. Dîvân’ı, nakkaş Levnî tarafından minyatürlenen Sûrnâme’si, Hadîs-i Erbâin Tercümesi vardır.


ö. 1149ということで、ヒジュラ暦1149年(=西暦1736年~1737年)頃没?
アフメド3世の時代の詩人?

テーマ : 民族音楽
ジャンル : 音楽

Dissertations on the rhetoric, prosody, and rhyme of the Persians

Francis Gladwin
Dissertations on the rhetoric, prosody, and rhyme of the Persians
1801

http://books.google.co.jp/books?id=NjgOAAAAIAAJ

ロンドンで1801年出版されたペルシア語の詩の韻律に関する本。
Google Booksで全文無料で読むことが出来る。

テーマ : 民族音楽
ジャンル : 音楽

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