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トルコ古典音楽におけるユダヤ系作曲家

■ボンジュクチュ・ムセヴィBoncukçu Musevi(?-1750)

ボンジュクチュ・ムセヴィBoncukçu Museviの本当の名前は知られていない。彼の雅号はボンジュクチュBoncukçuである(=彼、ボンジュクチュは悪意に満ちた目the Evil Eyeを避けるためにガラス玉を作り出す)。そして彼の作品は、1730年から1754年を治めたマフムド1世(※1)の時代より高貴な古写本の中で生き残る。

彼の作品:
İşvebâzım vaktidir seyr-i gülistân eylesek
Form:Beste, Makam:Segâh,
Bestekâr:Boncukcu, Güftekâr:_, Usûl:Çenber
TRT Repertuar No:6778

■タンブーリー・ハハム・ムシェ・ファロ(ムシ)Tanbûrî Haham Muşe Faro (Musi)(?-1776)

タンブーリー・ハハム・ムシェ・ファロ(ムシ)Tanbûrî Haham Muşe Faro (Musi)は16世紀にポルトガルから移住したセファルディの子孫である。彼はオスマン芸術音楽を書いた、オスマン芸術音楽の規定の元で?彼はまたシナゴーグ音楽に専念した。タンブーリー・イスハクTanbûrî İshakに教えたのはおそらく彼だった。1751年に大使館の書記シャルル・フォントンCharles Fontonはムシをスルタン・マフムド1世の宮廷での第一級の音楽家の一人として描写した。ムシの器楽曲の11が生き残っている(5つのペシュレウpeşrev、5つのサズ・セマイsaz semaî、1つのセマイsemaî)

彼の作品:
キュチェク・ペシュレウィKüçek Peşrevi(ウスールUsûl:ムハンメスMuhammes、32/4拍子)
4haneある。キュチェクKüçekは珍しいマカムmakam。

■タンブーリー・イスハクTanbûrî İshak(イサーク・フレスコ・ロマノIsaac Fresco Romano)(1745-1814)

イサーク・フレスコ・ロマノIsaac Fresco Romano(タンブーリー・イスハクTanbûrî İshak)はタンブールtanburとケマンkemanのヴィルトゥオーソだった、そしてスルタン・セリム3世(1789-1807)の宮廷と接近して付き合った。彼はスルタンにタンブールを演奏することを教えた、そしてまたシナゴーグの中で歌手として活発だった(バイタルbaytarあるいはパイタンpaytan)。彼の生き残っている作品は 37のペシュレヴpeşrev、28のサズ・セマイsaz semaî、5つのベステbeste、1つのアーウル・セマイağir semaî 、3つのユリュク・セマイyürük semaîに加えて多数の宗教詩を含む。

彼の作品:
Pîr olmada gerçi gönül amma civan ister
Form:Y.S., Makam:Şedaraban,
Bestekâr:Tanbûri İzak Efendi, Güftekâr:_, Usûl:Yürük Semâî
TRT Repertuar No:8786

Gülizar Peşrev(Hafif) Tanbûrî İshak
ウスールUsûl:ハフィーフは32/4拍子。

■ムスルル・ウディ・アヴラム・イブラーヒム・エフェンディMısırlı Udi Avram İbrâhim Efendi(1872-1933)

アラビアのユダヤ人ムスルル・ウディ・アヴラム・イブラーヒム・エフェンディMısırlı Udi Avram İbrâhim Efendiはオスマン宮廷でのウードの最後の偉大な達人だった。500の作品、すべて西洋の記譜法で、が彼の作品である。確実に彼の作品とみなされるのは56曲だが。ウディ・ムスルルは 声と器楽の即興(ガゼルgazel とタクシムtaksim)がレコードになった最初のトルコの音楽家のひとりだった。

■イサク・ヴァロンIsak Varon

イサク・ヴァロンIsak Varonはガリポリ(※2)で生まれた、しかし彼の人生の最初の部分をサロニキですごした。1918年のオスマン帝国の崩壊に従って、彼はコンスタンチノープルに移動した、そこで彼は音楽雑誌を出版した、そして音楽家としてレコード盤に録音を残し、またプロデューサーとしてレコード盤を作成した。彼は83の作品を残した。

※1 マフムド一世、マフムト1世、マフムト一世(Mahmut I, 1696年8月2日生‐1754年12月13日没)は、オスマン帝国第24代スルタン。在位 1730年-1754年。一代前はチューリップ時代を築いたアフメト3世。四代後が(第28代スルタン)セリム3世。

※2 Galipolisはたぶんトルコのゲリボル(トルコ語:Gelibolu)の事と思われる。ゲリボルは半島の意味と(ゲリボル半島)、その半島にある町(マルマラ地方のチャナッカレ県に位置する町)の意味がある。ゲリボルの名前の由来はギリシャ語のカリポリス(Kallipolis「美しい町」という意)。ゲリボル半島は英語でガリポリ半島Gallipoli peninsulaと言われる。第一次世界大戦の時、大規模な戦闘があった。

いつもの適当訳。
L'Orient ImaginaireのYehudi Jewish Music from the Seraglioの解説書(文章:Vladimir Ivanoff)の一部を適当に翻訳。訳文は適当なので原文にあたって欲しい

以下原文

The real name of the composer known as Boncukçu Musevi is not known.His pseudonym Boncukçu (= he who produces glass beads to ward off the Evil Eye) and his works survive in a magnificent codex from the time of Mahmud I, who reigned from 1730 to 1754.

Tanbûrî Haham Muşe Faro (Musi) descended from a Sephardic family that emigrated from Portugal in the 16th century. He wrote Ottoman art music, the rules of which he also applied to synagogue music. It was probably he who taught Tanbûrî İshak. In 1751 the embassy secretary Charles Fonton described Musi as one of the leading musicians at the court of Sultan Mahmud I. Eleven of Musi's instrumental works have survived (5 peşrev 5 saz semaî and 1semaî).

Isaac Fresco Romano (Tanbûrî İshak) was a virtuoso on the tanbur and keman and closely associated with the court of Sultan Selim III (1789-1807). He taught the sultan to play the tanbur and was also active as a singer in a synagogue (baytar or paytan). His surviving works include numerous religious poems in addition to 37 peşrev, 28 saz semaî, 5 beste, 1 ağir semaî and 3 yürük semaî.

The Arabic Jew Mısırlı Udi Avram İbrâhim Efendi was the last great master of the 'ûd at the Ottoman court. Some five hundred compositions, all in western notation, are attributed to him, although only fifty-six of them can be ascribed to him with any certainty. Udi Mısırlı was one of the first Turkish musicians to record vocal and instrumental improvisations (gazel and taksim).

Isak Varon was born in Galipolis but spent the first part of his life in Saloniki. Following the collapse of the Ottoman Empire in 1918 he moved to Constantinople, where he published a music periodical and took part in countless gramophone recordings both as a musician and as a producer. He left eighty-three compositions.

改定履歴
2013/05/03
関連記事に「オスマン帝国の芸術的な音楽:担う人々の多様性」を追加

関連記事
ムスルル・イブラヒム・エフェンディ(1872-1933)について
http://minzokuongaku822.blog122.fc2.com/blog-entry-59.html
マカム・キュチェクMakam Küçekについて
http://minzokuongaku822.blog122.fc2.com/blog-entry-76.html
ボンジュクチュ・ムセヴィBoncukçu Musevi(?-1750)の名前について
http://minzokuongaku822.blog122.fc2.com/blog-entry-137.html

オスマン帝国の芸術的な音楽:担う人々の多様性
http://minzokuongaku822.blog122.fc2.com/blog-entry-202.html
一部、タンブーリー・イスハク(=タンブーリー・イサク)についての記述あり
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テーマ : 民族音楽
ジャンル : 音楽

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