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音の遺跡―アラブの人々に受け継がれた身体感覚としての科学(木村伸子)を読んだ取りとめの無い感想

音の遺跡 ―― アラブの人々に受け継がれた身体感覚としての科学 木村伸子
http://synodos.livedoor.biz/archives/1912395.html

文章を書いた木村伸子さんは、東大出て、エジプトの中世社会史研究して、ヴァイオリン弾いて、アラブ音楽を演奏する、という興味深い方。

世の中は広い。本当に色々な方がいるなぁ、と思った。

文章の内容だが、(私の解釈はおかしいかも知れないが)、要するに音程比の美しさを称賛している、と思った。

古代ギリシアのピタゴラス派の流れ。
数学の教科書に出てくる「ピタゴラスの定理」のピタゴラス Πυθαγόρας。

音程比って美しいですね。
もっと言えば数比になるのか…
「世界を支配する原理は数の比である」

数学の先生が数式を「美しい」と言うような感じ。

古代ギリシア→古代ローマ→中世アラブ、ペルシア→オスマン帝国という流れ。

トルコ古典音楽で使われる音程の名前bakiyeはアラビア語のバキーヤに由来し、更にアラビア語のバキーヤ(意味は「残り」)は古代ギリシア語のレインマ λεῖμμα(意味は「残り」)に由来する。イスタンブルに伝わる芸術音楽の理論を辿っていくと、遥か古代、ギリシアまで行ってしまう。

最近トルコ古典音楽のmakamについて「makamは旋律の巡り方である」と考えるようになった。

良く説明されるように音階では無い。
1オクターブの音階とするとMakam NihâvendとMakam Ferah-Fezâは同じになってしまう。

Muallim İsmail Hakkı Bey(1865-1927)作曲のMakam Ferah-Fezâのペシュレヴ(ウスールはFahte)の旋律に見られるようにFerah-Fezâは独特の旋律の動きをする。それによってNihâvendと区別される。

あるいは、もっと極端にmakam=旋律、でいいのかも。

音階よりは旋法に近い。でも西洋中世の教会旋法とmakamは違う。そもそも音楽が違う。教会旋法は西洋音楽で、makamはトルコ古典音楽。

あ、でも繋がってはいるのか…

西洋中世の教会音楽とビザンチン音楽、アラブ音楽、オスマン時代の都市の芸術音楽。

ザハリヤ Zaharya(オスマン帝国時代の音楽家。イスタンブル生まれのギリシア正教徒)はトルコ古典音楽の音楽だけでなく、ギリシア正教会のための音楽も作っている(彼の作曲したギリシア正教会のための聖歌は、めったに演奏されなくて、ザハリヤはギリシア正教音楽の世界よりもトルコ古典音楽の世界での方が有名とのこと)。

makamの事を音階として理解すると、いずれは壁にぶつかる。非常に珍しいmakam、Vech-i Arazbarの歌(Vardakosta Ahmet Ağa作曲のBesteやYürük Semâî)の旋律を聞いているとそれが良く分かる。

Vech-i Arazbar Beste "Ne bulur ehl-i safâ bende vefâdan gayrı"
Vech-i Arazbar Yürük Semâî "Yandırdı beni şevk-i cemâlin ey mâh"
(いづれもVardakosta Ahmet Ağa作曲)

Makam Vech-i Arazbarを「1オクターブの音階」として説明するのは極めて、極めて、困難。主音を決めて、1オクターブの音階としてまとめる事が出来ない。

Abdülbâki Nâsır Dede(1765-1821)の「Tedkîk ü Tahkîk」のラースト Rastの説明にあるように、「ラーストの音で始めて、デュギャーフ、セギャーフ、チャールギャーフの音で曲がり、下のセギャーフ、デュギャーフの音を通ってラーストの音に来てそこで終わる」(by「トルコ音楽にみる伝統と近代」ジェム・ベハール著、新井政美訳、184頁)という旋律の線の動きとして理解するのが良いのでは無いか。

確か増本伎共子先生の雅楽の本に書かれていた「調(西洋音楽の調では無く、雅楽の調)」の説明を読んだ時に思い浮かんだ、「マカームは旋律型の集合体」でも良いかも。

話がずれた。
数比は美しい、ということで、それを極限まで押し進めると、「複雑化」という問題につきあたる。古代ギリシアのアリストクセノスἈριστόξενοςが批判した正にそれ。「全音は半音二つからなる」

実際大きい半音と小さい半音があって、それぞれの音程比は、云々、とするとややこしくなる。普通の人にとってそんなことはどうでも良い。

中国の三分損益法で求めた、前漢の京房の六十律と同じ。南北朝の宋の元嘉年間の銭楽之の三百六十律と同じ。
実際の中国音楽では十二律で満足していた。

西洋音楽でいう所の「転調」の時に起こる問題もある。音程比27:22(ザルザルのウスター)という音程比をあくまで固守するなら、「転調」、アラブ音楽の場合は何と言えばいいのだろう、「転マカーム」?の時にどんどん、どんどんと新しい音程が作られていってしまう。

転マカーム出来ないよ!
転マカームこそマカームの本質なのに。つまり「旋律の巡り方」こそマカームの本質なのに。転調して行くことはマカームの本質なのに。
(ここでは「転調」を狭義の転調では無く、広い意味合いで取っている。音が移行する事がマカームの本質。音の動きがマカーム。だから新しいmakamが作られる。)

かといって平均律(十二平均律でも五十三平均律でも)にまとめると、音程比の、数比の、美しさは楽しめない。平均律にまとめると「転調」をいくら行なっても整合性は保たれるけど。
たくさんのmakamが次々に現れて移り変わっていくKâr-ı Nâtık万歳。

平均律は「妥協だ」という立場もある。一理はあると思う。音程比を美しい、とする立場なら。
でも一方、カラウィタン Karawitan(東南アジアの島嶼国家インドネシアのジャワ島中部の伝統芸能)の音楽の旋律にみられるように妥協というか「あいまいさ」そのものを生かした旋律を否定することになる。
ランチャランLancaran形式でlalas pelog pathet barangのUdan masとpathet limaのUdan Masの旋律の違い、という面白さを否定していると思う(Udan mas→バリ島のじゃないです。ジャワの方)。
妥協してるからこそ、成り立つ。

数比って美しいですね。
雑文でした。
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テーマ : 民族音楽
ジャンル : 音楽

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