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Ali Ufki Beyとヒュッレム妃(ロクセラーナ)の出身の共通項ウクライナ/ポーランド

ウクライナ大使、ヒュッレム妃TV人気にコメント
2011年05月25日付 Radikal紙
http://www.el.tufs.ac.jp/prmeis/html/pc/News20110526_082407.html
(翻訳:湯澤芙美)
によれば、

ヒュッレム妃は

「~本名はアレクサンドラ・リソフスカといい、欧州では「ロクセラーナ」と呼ばれることの多い~オスマン帝国スレイマン一世の妻であり、後のスルタン、セリム二世の母である。ポーランド(レヒスタン)王国の領土内にあったロハティン村の司祭の三女で末っ子として、1506年に生まれた。息子のセリム二世のスルタン即位を待たずに、1558年イスタンブルで52年の生涯を終えた。20代の頃タタール人の山賊にさらわれたが、クルム・ハンに保護されオスマン宮廷へ連れられてきたという記録が残っている。~ヒュッレム妃が生まれたとされるロハティン村には、記念碑も建てられている。~」

との事。

第10代スレイマン1世は、1494年11月6日生まれ、1566年9月5日没、在位:1520年~1566年。

ロハティン村は「ウクライナのガリチア地方にある」らしい。

原文のRadikal紙の記事を確認したら、トルコ語でガリチアはGaliçya、ロハティンはRohatinと表現されていた。

ガリチアで調べたら、以下がひっかかった。

Wikipedia日本語版"ガリツィア"
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%84%E3%82%A3%E3%82%A2
(2011/11/06閲覧)によると

「ガリツィア(ウクライナ語: Галичина、ハルィチナー)は、現在のウクライナ南西部を中心とした地域である。18世紀末からポーランド最南部も含まれることもある。住民は主にウクライナ人で、西部にはポーランド人も住んでいる。紅ルーシとも呼ばれた。現代では、東欧に跨る地域となっている。
「ガリツィア」という名称は、ラテン語化されたウクライナ語の「ハルィチナー」という名前に由来する。「ハルィチナー」は「ハールィチの国」または「ハールィチの土地」といった意味で、西ウクライナにあるハールィチという町名を起源としている。」

とのこと。

ガリツィアの場所を表す地図。黄色で塗られた所。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Ukraine-Halychyna.png

ガリツィアは、「ウクライナ語: Галичина、ハルィチナー、ポーランド語: Galicja ガリーツャ、ロシア語: Галиция ガリーツィヤ、ドイツ語: Galizien ガリーツィエン, ハンガリー語: Gáczország ガーチョルサーグ、英語: Galicia」だそうだ。

で、Google MapでRohatinを検索すると、「Rohatîn, Regiunea Ivano-Frankivsk, Ucraina」なる候補が出てきた。場所は以下。イヴァーノ=フランキーウシク(Івано-Франківськ)州にあるようだ。


大きな地図で見る

大体ガリチア地方だと思われるし、ここかな?


そしてアリ・ウフキー・ベイは

「アリ・ウフキー(Ali Ufki)またはボボウスキー(Wojciech Bobowski , Albert Bobowski , Albertus Bobovius , Alberto Bobovio)。またAli Bey , Santurî Ali Ufki , Hali Beyとも。1610年生まれ、1675年没。17世紀のポーランド人あるいはウクライナ人あるいはトルコ人。トルコ名アリ・ウフキー・ベイAli Ufkî Bey。ウクライナでポーランド貴族の息子として生まれ、18歳の時デヴシルメで徴発、イスタンブルに連れて来られ、ムスリムとなり、22~29歳の間トプカプ宮殿に入り、そこで19年過ごした。これは17代ムラト4世(1623年-1640年)、18代イブラヒム(1640年-1648年)、19代メフメト4世(1648年-1687年)の治世期間にあたる。古典トルコ音楽をはじめて採譜した。彼の「器楽と歌謡集成」Mecmûa-i Sâz ü Sözは大英図書館に、その草案であるŞiir ve Şarkı Mecmuasıはフランス国立図書館に保管されている。」

「ウクライナでポーランド貴族の息子として生まれ」というのが良く分からなかったけど、ガリチア地方のことを知って、ウクライナとポーランドって接してるんだ、と初めて認識。

ヒュッレム妃より生まれたのが約100年遅いけど、もしかしたら、おおざっぱに言って大体同じような地域から来たのかな?つまり、ガリチア地方から。

ちなみに、ウクライナ出身者は他にもいて、先のRadikal紙の記事の翻訳によれば

「~オスマン帝国スルタンの妻となり、国家の行く末に重要な役割を果たしたウクライナ出身の皇妃といえば「狂人イブラヒム」として知られるイブラヒム一世の妻、ハティージェ・トゥルハン妃だ。彼女は姑・キョセム妃との権力争いに勝ち、女性が政治に関わることを禁じた。ウクライナ民俗資料によると、オスマン二世の妻メリケ妃もウクライナ出身だったという。~」

とのこと。

狂人イブラヒムはオスマン帝国の第18代スルタンで1615年11月5日生まれ、1648年8月12日没、在位:1640年~1648年。

ハティージェ・トゥルハン妃はWikipedia英語版"Turhan Hatice"
http://en.wikipedia.org/wiki/Turhan_Hatice
(2011/11/06閲覧)
によると

1628年?生まれ、1683年没、19代メフメト4世(1642年1月2日-1693年1月6日、在位:1648年-1687年)の母とのこと。元々の名前はNadya(ナディヤ?)でウクライナ人。タタールに?捕まって奴隷として売られて、12歳の時、スルタン・イブラヒムの母キョセム・スルタンの元に送られたらしい。

「元々の名前はNadya(ナディヤ?)でウクライナ人」の情報元は
Natalia Yakovenko."Essays on History on Ukraine. From the Earliest Times until the End of the 18th Century". 1997年(http://www.vesna.org.ua/txt/yakovenkon/znaid/index.html)

らしいが2011年11月6日現在、上記URLはデッドリンクになっていて詳細確認できず。

ハティージェ・トゥルハン妃(1628?-1683)ってアリ・ウフキー・ベイ(1610-1675)と大体同時代人と言えるかな?男女の違いはあるけど。年齢も(ハティージェ・トゥルハン妃が1628年生まれだとすると)18歳年下だけど。ウクライナ出身は同じ。生きてた時代も重なる。

関連記事
Ali Ufki BeyのWojciechの読み方
http://minzokuongaku822.blog122.fc2.com/blog-entry-84.html
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