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オスマン帝国の芸術的な音楽:担う人々の多様性

オスマン帝国支配下の都市(※1)で行なわれた芸術的な技巧を凝らした音楽を担っていた人々は、ムスリム(イスラームという宗教を信仰する人)だけでは無かった。ユダヤ教徒やキリスト教徒もいた。

タンブーリー・イサク Tanbûrî İsak (1745-1814)はユダヤ教徒だった。彼はスルタン・セリム三世 Sultan Selim III (1761-1808)にタンブール Tanbûr という弦楽器を教えていた。

ザハリヤ Zaharya (1740没?)はギリシア正教徒だった。ギリシア正教はキリスト教の東方教会に分類される。ザハリヤはイスタンブル İstanbul のフェネル Fener 地区に住んでいた。メフメト二世 Sultan Mehmet II (1432-1481)のコンスタンティノポリス Constantinopolis 征服によって、ハギア・ソフィア Hagia Sophiā 大聖堂に置かれていたギリシア正教会の総主教座は、そこを追われてしまった。辿り着いた場所はイスタンブルのフェネル地区である(※2)。ギリシア正教会の総主教座がフェネル地区にあったので、周辺にはギリシア正教徒が集まってくるようになっていた。

ザハリヤの作った歌。例えば、Şebnem gibi saçılsın hûn-i eşk-i pür-revânım。これは、マカーム・ヒュセイニー Makam Hüseynî のベステ Beste である(ベステは声楽曲の形式名の内のひとつ)。ウスール Usûl はベレフシャン Berefşan。

ハンパルスム Hamparsum (1768-1839)はアルメニア正教徒である。アルメニア正教はキリスト教の東方教会に分類される。アルメニアはロシアとペルシアの間にある小国である。スルタン・セリム三世の意を受け、彼はハンパルスム譜という独特な楽譜を作った。これは文字によって旋律を記録する「文字譜」とでも言うべきものである。

ジュゼッペ・ドニゼッティ Giuseppe Donizetti (1788-1856)はイタリア人であった。北部イタリアのベルガモ Bergamo に生まれ、イスタンブルで亡くなった。彼はマフムト二世 Sultan Mahmut II (1786-1839)の頃の時代の人で、オスマン帝国の軍楽隊の指導をした。彼の弟ガエターノ・ドニゼッティ Gaetano Donizetti はイタリアのオペラの作曲家として知られている。

※1 例えば、イスタンブル İstanbul、エディルネ Edirne、ブルサ Bursa、テッサロニキ Θεσσαλονίκη (現ギリシア領)など
※2 現在、総主教座はフェネル地区の聖ゲオルギオス大聖堂にある。

文責:白いりんご

関連記事
Zaharya Efendi(Mir Cemil)(?-1740?)について
http://minzokuongaku822.blog122.fc2.com/blog-entry-89.html

イスタンブル旧市街北西部の金角湾に面したフェネル地区
http://minzokuongaku822.blog122.fc2.com/blog-entry-87.html

オスマン帝国チューリップ時代の音楽家
http://minzokuongaku822.blog122.fc2.com/blog-entry-61.html
→Zaharyaとだいたい同時代の音楽家たちについて記述

トルコ古典音楽におけるユダヤ系作曲家
http://minzokuongaku822.blog122.fc2.com/blog-entry-75.html
→タンブーリー・イスハク(=タンブーリー・イサク)について記述

ハンパルスムについて
http://minzokuongaku822.blog122.fc2.com/blog-entry-19.html

オスマン詩は歌われていた
http://minzokuongaku822.blog122.fc2.com/blog-entry-210.html
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テーマ : 民族音楽
ジャンル : 音楽

Ali Ufki Beyとヒュッレム妃(ロクセラーナ)の出身の共通項ウクライナ/ポーランド

ウクライナ大使、ヒュッレム妃TV人気にコメント
2011年05月25日付 Radikal紙
http://www.el.tufs.ac.jp/prmeis/html/pc/News20110526_082407.html
(翻訳:湯澤芙美)
によれば、

ヒュッレム妃は

「~本名はアレクサンドラ・リソフスカといい、欧州では「ロクセラーナ」と呼ばれることの多い~オスマン帝国スレイマン一世の妻であり、後のスルタン、セリム二世の母である。ポーランド(レヒスタン)王国の領土内にあったロハティン村の司祭の三女で末っ子として、1506年に生まれた。息子のセリム二世のスルタン即位を待たずに、1558年イスタンブルで52年の生涯を終えた。20代の頃タタール人の山賊にさらわれたが、クルム・ハンに保護されオスマン宮廷へ連れられてきたという記録が残っている。~ヒュッレム妃が生まれたとされるロハティン村には、記念碑も建てられている。~」

との事。

第10代スレイマン1世は、1494年11月6日生まれ、1566年9月5日没、在位:1520年~1566年。

ロハティン村は「ウクライナのガリチア地方にある」らしい。

原文のRadikal紙の記事を確認したら、トルコ語でガリチアはGaliçya、ロハティンはRohatinと表現されていた。

ガリチアで調べたら、以下がひっかかった。

Wikipedia日本語版"ガリツィア"
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%84%E3%82%A3%E3%82%A2
(2011/11/06閲覧)によると

「ガリツィア(ウクライナ語: Галичина、ハルィチナー)は、現在のウクライナ南西部を中心とした地域である。18世紀末からポーランド最南部も含まれることもある。住民は主にウクライナ人で、西部にはポーランド人も住んでいる。紅ルーシとも呼ばれた。現代では、東欧に跨る地域となっている。
「ガリツィア」という名称は、ラテン語化されたウクライナ語の「ハルィチナー」という名前に由来する。「ハルィチナー」は「ハールィチの国」または「ハールィチの土地」といった意味で、西ウクライナにあるハールィチという町名を起源としている。」

とのこと。

ガリツィアの場所を表す地図。黄色で塗られた所。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Ukraine-Halychyna.png

ガリツィアは、「ウクライナ語: Галичина、ハルィチナー、ポーランド語: Galicja ガリーツャ、ロシア語: Галиция ガリーツィヤ、ドイツ語: Galizien ガリーツィエン, ハンガリー語: Gáczország ガーチョルサーグ、英語: Galicia」だそうだ。

で、Google MapでRohatinを検索すると、「Rohatîn, Regiunea Ivano-Frankivsk, Ucraina」なる候補が出てきた。場所は以下。イヴァーノ=フランキーウシク(Івано-Франківськ)州にあるようだ。


大きな地図で見る

大体ガリチア地方だと思われるし、ここかな?


そしてアリ・ウフキー・ベイは

「アリ・ウフキー(Ali Ufki)またはボボウスキー(Wojciech Bobowski , Albert Bobowski , Albertus Bobovius , Alberto Bobovio)。またAli Bey , Santurî Ali Ufki , Hali Beyとも。1610年生まれ、1675年没。17世紀のポーランド人あるいはウクライナ人あるいはトルコ人。トルコ名アリ・ウフキー・ベイAli Ufkî Bey。ウクライナでポーランド貴族の息子として生まれ、18歳の時デヴシルメで徴発、イスタンブルに連れて来られ、ムスリムとなり、22~29歳の間トプカプ宮殿に入り、そこで19年過ごした。これは17代ムラト4世(1623年-1640年)、18代イブラヒム(1640年-1648年)、19代メフメト4世(1648年-1687年)の治世期間にあたる。古典トルコ音楽をはじめて採譜した。彼の「器楽と歌謡集成」Mecmûa-i Sâz ü Sözは大英図書館に、その草案であるŞiir ve Şarkı Mecmuasıはフランス国立図書館に保管されている。」

「ウクライナでポーランド貴族の息子として生まれ」というのが良く分からなかったけど、ガリチア地方のことを知って、ウクライナとポーランドって接してるんだ、と初めて認識。

ヒュッレム妃より生まれたのが約100年遅いけど、もしかしたら、おおざっぱに言って大体同じような地域から来たのかな?つまり、ガリチア地方から。

ちなみに、ウクライナ出身者は他にもいて、先のRadikal紙の記事の翻訳によれば

「~オスマン帝国スルタンの妻となり、国家の行く末に重要な役割を果たしたウクライナ出身の皇妃といえば「狂人イブラヒム」として知られるイブラヒム一世の妻、ハティージェ・トゥルハン妃だ。彼女は姑・キョセム妃との権力争いに勝ち、女性が政治に関わることを禁じた。ウクライナ民俗資料によると、オスマン二世の妻メリケ妃もウクライナ出身だったという。~」

とのこと。

狂人イブラヒムはオスマン帝国の第18代スルタンで1615年11月5日生まれ、1648年8月12日没、在位:1640年~1648年。

ハティージェ・トゥルハン妃はWikipedia英語版"Turhan Hatice"
http://en.wikipedia.org/wiki/Turhan_Hatice
(2011/11/06閲覧)
によると

1628年?生まれ、1683年没、19代メフメト4世(1642年1月2日-1693年1月6日、在位:1648年-1687年)の母とのこと。元々の名前はNadya(ナディヤ?)でウクライナ人。タタールに?捕まって奴隷として売られて、12歳の時、スルタン・イブラヒムの母キョセム・スルタンの元に送られたらしい。

「元々の名前はNadya(ナディヤ?)でウクライナ人」の情報元は
Natalia Yakovenko."Essays on History on Ukraine. From the Earliest Times until the End of the 18th Century". 1997年(http://www.vesna.org.ua/txt/yakovenkon/znaid/index.html)

らしいが2011年11月6日現在、上記URLはデッドリンクになっていて詳細確認できず。

ハティージェ・トゥルハン妃(1628?-1683)ってアリ・ウフキー・ベイ(1610-1675)と大体同時代人と言えるかな?男女の違いはあるけど。年齢も(ハティージェ・トゥルハン妃が1628年生まれだとすると)18歳年下だけど。ウクライナ出身は同じ。生きてた時代も重なる。

関連記事
Ali Ufki BeyのWojciechの読み方
http://minzokuongaku822.blog122.fc2.com/blog-entry-84.html

テーマ : 民族音楽
ジャンル : 音楽

ボンジュクチュ・ムセヴィBoncukçu Musevi(?-1750)の名前について

Klasik Türk Müziğinde Musevi Bestekarlarという2006年発売らしいCDがあって
英題はJewish composers in classical turkish musicなので
MuseviはJewishなのかなぁ?と。

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http://www.gozlemkitap.com/index.php?a=productDetail&productId=228

Gözlem Kitap | Klasik Türk Müziğinde Musevi Bestekarlar / CD
Tanburi İsak , İsak Varon , Mısırlı İbrahim
Gözlem Gazetecilik

Yapım: Gözlem Gazetecilik Basın ve Yayın A.Ş.

Tanburi İsak
1- Kemençe Taksimi 1.20
2- Gül’izar Beste 6.16
3- Gül’izar Ağır Semai 2.40
4- Gül’izar Yürük Semai 4.38
5- Kanun Taksimi 1.54
6- Şedd-i Araban Beste 5.23
7- Şedd-i Araban Yürük Semai 4.59

İsak Varon
8- Ferahfeza Şarkı 3.08
9- Evc Şarkı 4.03

Mısırlı İbrahim
10- Ud Taksimi 1.21
11- Uşşak Şarkı 3.40
12- Ney Taksimi 0.50
13- Rast Şarkı 3.46
14- Nihavend Şarkı 3.58
15- Kürdi’li Hicazkâr Şarkı 3.37
16- Kürdi’li Hicazkâr Şarkı 4.02

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BoncukçuはBoncukとçuに分かれるのかな?
でçuは「~屋」の意味?

~ジ、~ジュはトルコ語で~屋さん?
http://minzokuongaku822.blog122.fc2.com/blog-entry-122.html

Boncukをgoogleで検索→トルコ語限定にするとガラス玉?ビーズ?のような写真が現れる。

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babylonのトルコ語→英語辞書
http://translation.babylon.com/turkish/to-english/#
で調べると

Boncuk:
glass bead
n. bead, small object with a hole in the center

とのこと。
"glass bead"は「ガラス玉」の意
"bead"は「ビーズ」「数珠玉」の意
"small object with a hole in the center "→「中央に穴がある小さい物体」の意味になるかな?
ちなみに、"bead"は"beads"のように複数形になると「ビーズのネックレス」の意味になるとのこと。

Boncukçu:
Bead maker

→"Bead maker"で「ビーズ屋」の意味かな?「数珠屋」の意味?もしかして「(ビーズ製の)ネックレス屋」?

Musevi:
n. Jew, Hebrew, Israelite
adj. Jewish, Judaic, Israelite

→ユダヤ人、ユダヤ教徒の意味?
-------------------------------------------
で、結局Boncukçu Museviで「ユダヤ人の数珠屋」「ユダヤ教徒のビーズ屋」みたいな意味になるのかな?

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L'Orient ImaginaireのYehudi Jewish Music from the Seraglioの解説書(文章:Vladimir Ivanoff)

The real name of the composer known as Boncukçu Musevi is not known.His pseudonym Boncukçu (= he who produces glass beads to ward off the Evil Eye) and his works survive in a magnificent codex from the time of Mahmud I, who reigned from 1730 to 1754.

(適当訳)
ボンジュクチュ・ムセヴィBoncukçu Museviの本当の名前は知られていない。彼の雅号はボンジュクチュBoncukçuである(=彼、ボンジュクチュは悪意に満ちた目the Evil Eyeを避けるためにガラス玉を作り出す)。そして彼の作品は、1730年から1754年を治めたマフムド1世の時代より高貴な古写本の中で生き残る。
-------------------------------------------

雅号がボンジュクチュBoncukçu、ということは「数珠屋」?「ビーズ屋」?「ビーズ製のネックレス屋」?ということで、(= he who produces glass beads to ward off the Evil Eye)の文の意味が良く分からなかったが、要するに数珠かビーズかビーズ製のネックレス?を作っていた、ということ?

イスラーム圏での魔除けの話はどこかで聞いた覚えがある…

Boncukçu Museviは1750年没で、時代としては1730年から1754年を治めたオスマン帝国第24代マフムト1世の治世下で活躍した音楽家らしいので「古写本」に記載されている、というのはアリ・ウフキー・ベイ Ali Ufkî Beyの本じゃないはず
→なぜならアリ・ウフキー・ベイ Ali Ufkî Bey/ヴォイチェク・ボボウスキ Wojciech Bobowskiは1610年生まれ、1675年没なので。アリ・ウフキー・ベイ Ali Ufkî Beyの方が先に亡くなっている。彼の「器楽と歌謡集成」Mecmûa-i Sâz ü Sözには載らないはず。

ディミトリエ・カンテミール Dimitrie Cantemir/カンテミルオール Kantemiroğluは1673年生まれ、1723年没なので彼の本でもないかな?
→「文字による音楽の知識の書Kitab-ı İlmü'l-Musiki alâ Vechi'l-Hurufât」は第21代のアフメト2世に献呈されているので。また、これは器楽曲のみを記載している?らしいので。

※Kantemiroğlu→カンテミルオールのカナ表記は
トルコ新聞記事翻訳ハンドブック
ホーム > 翻訳スタート! > 2.カタカナ表記の原則 > 3. ğの表記の原則
http://www.tufs.ac.jp/common/fs-pg/portal/sien/trmeis/?page_id=256
「ğ+子音の場合、前の母音に長音「ー」をつける」より

※第21代のアフメト2世はチューリップ時代では無い。チューリップ時代は第23代のアフメト3世(在位:1703年-1730年)

ということはケヴセリーKevserîの本とか?

ケヴセリーKevserî:18世紀の音楽家、彼はカンテミルオールのものに似た作品のコレクションを同じ記譜法を使いながら編集し組み立てまとめた(情報元:Opus111社販売のCD、演奏Bezmârâの"TURKEY SPLENDOURS OF TOPKAPI"(OPS 30-266)(フランス製)の解説書(ブックレット)(文責:トルコ人の男性Fikret Karakaya)

-------------------------------------------------------------
www.notahavuzu.comで彼の曲を探す
→Boncukçuでは見付からず
→Boncukcuで見付かる。1件のみ。

İşvebâzım vaktidir seyr-i gülistân eylesek
Form:Beste, Makam:Segâh,
Bestekâr:Boncukcu, Güftekâr:_, Usûl:Çenber
TRT Repertuar No:6778

http://notaarsivleri.com/index.html
でも同じ1件の歌曲(ベステ)のみ。

http://www.sanatmuziginotalari.com/besteci_arama.asp
で調べても同じ1件の歌曲(ベステ)のみだった。

→Boncukçuでは見付からず、Boncukcuで見付かるのでつづりはBoncukcuの方が正しい?

関連記事
トルコ古典音楽におけるユダヤ系作曲家
http://minzokuongaku822.blog122.fc2.com/blog-entry-75.html

~ジ、~ジュはトルコ語で~屋さん?
http://minzokuongaku822.blog122.fc2.com/blog-entry-122.html

テーマ : 民族音楽
ジャンル : 音楽

トルコ古典音楽の音楽家Zaharya (Mir Cemil)(1740年?没、ギリシア系)の読み方

東京外国語大学「日本語で読む中東メディア」
トルコ新聞記事翻訳ハンドブック
ホーム > 翻訳スタート! > 2.カタカナ表記の原則 > 2.子音+ye/yaの場合
http://www.tufs.ac.jp/common/fs-pg/portal/sien/trmeis/?page_id=254
によると

引用ここから
-----------------------------------------------------------------------------------
2.子音+ye/yaの場合

1.子音+ye/yaの場合、その子音は「キ」、「スィ」、「ティ」のように「イ」音で表記する。ただしnは「ン」で表記する

Antakya ○アンタキヤ ×アンタクヤ
Antalya ○アンタリヤ ×アンタルヤ
Hülya ○ヒュリヤ ×ヒュルヤ/ヒューリヤ
Kütahya ○キュタヒヤ ×キュタフヤ
Malatya ○マラティヤ ×マラテヤ/マラトヤ/マラトゥヤ
Sakarya ○サカリヤ ×サカルヤ
Mudanya ○ムダンヤ ×ムダニヤ

------------------------------------------------------------------------------
引用ここまで

なのでZaharyaは「ザハリヤ」じゃないかな、と思う。
特に参考になるのが上のSakarya「サカリヤ」

turkmusikisiの情報。トルコ語。
ZAHARYA Efendi (Mir Cemil) ( ? /1740?)
http://www.turkmusikisi.com/bestekarlar/zaharya.htm

関連記事
Zaharya Efendi(Mir Cemil)(?-1740?)について
http://minzokuongaku822.blog122.fc2.com/blog-entry-89.html

トルコ古典音楽の音楽家Zaharya(ギリシア系)の名は英語でいうZachariah?
http://minzokuongaku822.blog122.fc2.com/blog-entry-88.html
名前について辿った記事

Zaharyaのあだ名Kürkçü
http://minzokuongaku822.blog122.fc2.com/blog-entry-129.html

オスマン帝国チューリップ時代の音楽家
http://minzokuongaku822.blog122.fc2.com/blog-entry-61.html
Zaharyaはチューリップ時代とほぼ同時代の音楽家。

イスタンブル旧市街北西部の金角湾に面したフェネル地区
http://minzokuongaku822.blog122.fc2.com/blog-entry-87.html
Zaharyaはフェネル地区にいた。

テーマ : 民族音楽
ジャンル : 音楽

Zaharya Efendi(Mir Cemil)(?-1740?)について

トルコ古典音楽の音楽家。ギリシア系。1740年没?

信頼できそうな情報源turkmusikisi.comによる彼の解説
http://www.turkmusikisi.com/bestekarlar/zaharya.htm
トルコ語
下の方に彼の作曲した曲一覧がある

トルコ伝統音楽のCDなどを出すトルコのレーベル、カランkalan(http://www.kalan.com/)からZaharyaに関すると思われるCDが出ている。解説が詳しい。ネット上で読める。
トルコ語
Hanende Zaharya
18. Yüzyıl İstanbul'undan Klasik Yakındoğu Müziği
En Chordais Müzik Topluluğu
http://www.kalan.com/scripts/album/dispalbum.asp?id=3871

その英語への翻訳
Zakharia Khanendeh
Classical Near Eastern from 18th Century Constantinople
En Chordais Music Ensemble
http://www.kalan.com/english/scripts/album/dispalbum.asp?id=3871
4つの文が読める
Introductory Note , Historical Background , The Musical Environment of The Times , Hanende Zaharya

Turkish Music Portalでの彼の記事
トルコ語
http://www.turkishmusicportal.org/composer.php?id=62&lang2=tr

Besteci ve İcracılar / Klasik Türk Müziği / Besteciler
BESTECİ VE İCRACILAR

ZAHARYA
(?-1740) Rum asıllı besteci, hânende ve sazende. Fener Ortodokz Cihan Patrikliği?nde baş hânende olarak çalıştığı söylenmektedir. III. Ahmet (1703-1730) ve I.Mahmut (1730-1754) himayesinde hânendelik yaptığı da söylenir. ?Kürkçü? olarak anıldığı için kürk taciri olduğu düşünülmektedir. 100 civarında eser bestelemiştir, bunların ancak 19?u günümüze ulaşmıştır.

その英語への翻訳(注:Turkish Music Portalの英語の翻訳は全般的に誤字・情報の欠落等が見受けられるので信頼性が低いと筆者は考えている)

英語
http://www.turkishmusicportal.org/composer.php?id=62&lang2=en

Composers and Performers / Turkish Classical Music / Composers
COMPOSERS AND PERFORMERS

ZAHARYA
(?-1740?)
A composer, singer and musician, Zaharya was said to have served as head cantor at the Greek Orthodox Patriarchate in Fener. It is said that he sang with the patronage of Ahmet III (1703-1730) and Mahmut I (1730-1754). As he was known by the nickname “Kürkçü” (Furrier), he is assumed to have been a fur merchant. Zaharya composed around 100 pieces; only 19 of these have survived to the present.

作曲家、歌手、そして音楽家、ザハルヤ?Zaharyaはカントールcantor頭(がしら)、カントール長、聖歌隊の指揮者頭、聖歌隊の指揮者長、礼拝の主唱者頭、礼拝の主唱者長[訳注※1]としてフェネルFener[訳注※2]のギリシアの正統派の家父長[族長]の地位で仕えた、勤めたと言われた。彼はアフメト3世(1703-1730)[訳注※3]とマフムト1世(1730-1754)[訳注※4]の後援で歌ったと言われる。彼があだ名「キュルクチュKürkçü[訳注※6]」(毛皮商人)によって知られるように、彼は毛皮の商人であったと仮定されている。ザハルヤ?Zaharyaはおよそ100の作品を作曲した;これらのうちただ19[訳注※5]だけが今日生き残っている。

訳注※1 トルコ語版の同部分の文章にはhânendeとあるのでcantorは指揮者の意味ではなく主唱者の意味かも知れない。ここの部分の文章の意味が良く分らないが「ギリシア正教会の聖歌隊長」という意味か?

訳注※2 おそらく地名と思われるがどこの事か不明。イスタンブル旧市街北西部の金角湾に面したフェネル地区の事か?FenerでググるとトルコのサッカーチームFenerbahçe(フェネルバフチェ)が出てくる。→フェネル地区について。この記事下部の関連記事「イスタンブル旧市街北西部の金角湾に面したフェネル地区」参照

訳注※3 アフメト3世、アフメト三世、アフメド3世、アフメド三世(Ahmed III, 1673年12月30日生まれ-1736年7月1日没)は、オスマン帝国の第23代スルタン(在位:1703年-1730年)。彼の治世中の1718年-1730年の期間はチューリップ時代(ラーレ・デヴリ?ラーレ・デウリ?)と言われる。マフムト1世は甥。

訳注※4 マフムト1世、マフムト一世(Mahmut I, 1696年8月2日‐1754年12月13日)は、オスマン帝国第24代スルタン(在位:1730年-1754年)。

訳注※5 http://www.turkmusikisi.com/bestekarlar/zaharya.htmに記載されているのは18曲。1曲の差は不明。

訳注※6 追記の注。

オスマン朝時代の男性衣装
南・西アジア課程 トルコ語専攻
859611
名雪貴晴
http://www.tufs.ac.jp/common/fs/asw/tur/theses/1999/nayuki.pdf
第3章 上部の衣装(第3章 上着および上部の衣装)
によれば、

キュルク(kürk)
:毛皮のついた上着。
ヒラットと同じように下賜されていた。

→ヒラット(hilat)
:カフタンのなかでもひときわ豪華なもの。
スルタンの礼服用のカフタンであると同時に、高い官職に任じられた者へ、またスルタンに謁見する者へ下賜されたもの。

→カフタン(kaftan)
:衣装のなかで一番上に着るもので、特に男性のものを言う。
現代でいうジャケットの位置にあたる。
カフタンは「あらゆる種類の上着をいう」のであってスルタンが着用する豪華な上着だけをカフタンというのではない。
「昔の社会ではイェニチェリからスルタン、小さな子供から老人までカフタンを着ていた」という。

キュルクは柔らかく美しい毛皮そのものであると同時に、そうした毛皮に包まれた上着を意味していた。
オスマン帝国の毛皮の流行は16世紀ヨーロッパ全土にわたる毛皮の流行と時を同じくする。
オスマン帝国の毛皮の主な輸入元はロシアであった。
この時期、オスマン帝国の毛皮加工技術は非常に発達し、政府みずからが指導にあたろうとした。
1829 年の服装改革以前にキュルクは大きな権力や富の象徴として重要な意味を持っていた。
ヒラットと同じようにスルタンから地位などに応じて下賜されるものであり、スルタンに謁見する外国使節にも礼服として着用させた。
またこうした種々のキュルクを保護するためにトプカプ宮殿内にはキュルク専用の部屋も設けられていた。
キュルクに使われたのはクロテンやヤマネコ、キツネ、ミンク、オオカミなどの毛皮であった。
そのなかでも特に貴重なものがクロテンのものである。
これらの毛皮は背中、首、腹、足に分けられ、それぞれ毛先から根元部分まで三つに分けられていた。
キュルクで特に価値の高いものはセラーセルの布地とクロテンの毛皮を用いたものである。
また一般的なキュルクは足首まで覆うものだが、膝丈ほどの短いものを特にserhadi と言い、袖のないものをカパニチャ(kapaniça)と言うことがある。

とのこと。

→この情報の元ネタは
護雅夫監修『トプカプ宮殿博物館―スルタンの衣裳』トプカプ宮殿博物館全集刊行会,1980
などらしい。

--------------------------------------------
2010/11/12
更に追記。
→関連記事
Zaharyaのあだ名Kürkçü
http://minzokuongaku822.blog122.fc2.com/blog-entry-129.html

-------------------------------------------
İstanbul Devlet Klasik Türk Müziği Korosu
BESTEKARLAR
1976'DAN BERİ ESERLERİNİ İCRA ETTİĞİMİZ BESTEKARLAR
http://devletkorosu.com/site/index.php?option=com_content&task=view&id=42&Itemid=34
によれば

ZAHARYA
Klasik musikimizdeki Rum bestekârlarımızın en önde geleni olan Zaharya’nın hayatı hakkında geniş bilgiler bulunmuyor. Fener’deki Rum Patrikhanesi’nin hânendesi, yani dini musiki eserleri okuyucusu olduğu bilinmektedir. Üstün bir tanburî olduğu, devrin çok kazançlı işlerinden olan kürk ticaretiyle uğraştığı ve ömrünün sonlarına doğru Müslümanlığa geçip Cemil adını aldığı rivayet edilmektedir. Bazı eski güfte mecmualarında ismi Mîr Cemil yahut Kürkçü olarak da kayıtlıdır. Zamanımıza yirmiye yakın eseri ulaşan bestekârımızın, Ortodoks kilise müziği için de besteler yaptığı bilinmektedir.

改定履歴
2010/05/23
キュルク(毛皮)について追記。

2010/11/12
関連記事「Zaharyaのあだ名Kürkçü」についての情報追加

2013/05/03
関連記事に「オスマン帝国の芸術的な音楽:担う人々の多様性」追加

関連記事
トルコ古典音楽の音楽家Zaharya(ギリシア系)の名は英語でいうZachariah?
http://minzokuongaku822.blog122.fc2.com/blog-entry-88.html

イスタンブル旧市街北西部の金角湾に面したフェネル地区
http://minzokuongaku822.blog122.fc2.com/blog-entry-87.html

オスマン帝国チューリップ時代の音楽家
http://minzokuongaku822.blog122.fc2.com/blog-entry-61.html
→Zaharyaとだいたい同時代の音楽家たちについて記述

Zaharyaのあだ名Kürkçü
http://minzokuongaku822.blog122.fc2.com/blog-entry-129.html

オスマン帝国の芸術的な音楽:担う人々の多様性
http://minzokuongaku822.blog122.fc2.com/blog-entry-202.html
一部ザハリヤについて記述あり

テーマ : 民族音楽
ジャンル : 音楽

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